バスを降りて校門を入る。玄関右手に事務所があり、来意を告げると応接室に通された。待つほどもなく一人の人物が
現れた。額が広く顎に向かって頬が細くなる、優形だが引き締まった顔つき、立ち上がって迎える
「教頭の山本です。どうぞおかけになって下さい。ずいぶん辺鄙なところで驚かれたでしょう」
「いえ、そんなことは・・・」
と言いながら、本心は大いに驚いていた。
「実はあなたにお会いする前に、同窓の畑山さんにお会いしたのですよ」
と仰せだ。畑山君とは同窓というより同級生で、よく在学中は教室で顔を合わせたが、こちらは演劇部と麻雀にに熱を上
げ、向こうは漢文専攻の生真面目一辺倒の学生だったから、あまり話を交わしたことはない。
しかし彼の親父さんとは、浪人中、駿台予備校で顔なじみだった。といっても個人的に親しかったわけではない。畑山
先生は周囲の毛を残して前額部、頭頂部、後頭部が鮮やかに禿げていた。見事なまでにつやつやと輝き、先生自身もこの
禿頭が自慢だった。卵の白身だかを使って、念入りに磨きをかけるのだそうだ。冗談の上手い陽気なお年寄りだった。
習ったのは古文か漢文だったのだろうが、忘れた。大学に入った時畑山君を見て、面差しがよく似ているので、聞いて
みるとやはり親子だった。
小金井の駅を下りて校舎まで歩く間に彼の家があった。だから帰りがけに新宿に誘って、一緒に一杯やるチャンスもなか
った。
「畑山さんは大学院に行って勉強を続けたいので、此処は少し不便ということで、あなたにお会いすることにしたのです
よ。」
なるほどそれで時間が掛かったのか、それにしても畑山君、良くぞ断ってくれた。そうでなければ面接の機会がもっと
遅れたか、或いは立ち消えのまま行政学会に燻っていなければならないところだった。何しろ彼はA合格、こっちはB合
格なのだから。
「ところで貴方は卒業論文に何をお書きになりましたか」
それは聞かれると思っていた。何しろ国語の教師になるわけだから、語学系か文学系か、ぐらいは確かめられるだろう
と覚悟していた。
「寺田寅彦の文章について書きました。」
「それはまた何故ですか。寅彦とは珍しいのではありませんか」
当然、珍しいさ、漱石の弟子とはいえ、彼は随筆しか書かなかった。漱石とか鴎外とか竜之介とか、その頃流行の太宰
治とか、周りの友人はそんな作家論を書いていたらしいが、そんな研究は掃いて捨てるほど有って、しかもそのどれもが、
我々の力では到底及びも付かない、段違いの高級品であるのは分かり切っていた。低級な真似書きか、下手すると盗作に
なるような物しか書けないのは口惜しい。
うまいことに、我が家に中の姉が買い揃えていた寅彦全集が有った。それが寅彦をテーマに選んだ一番の理由だった。
特に寅彦が好きだったわけではない。
「寅彦は物理学者ですが、彼の随筆は漱石譲りの名文です。彼の中で科学と芸術が融合
していると思われました。これからの文学は、やはり科学との融合を心がける必要が有ると思い、寅彦をテーマに選びま
した。」
と答えた。まんざら口から出任せの嘘ではない。このくらいの応答の覚悟がなければ、たかが五十枚程度の卒業論文とは
いえ、そう簡単に書けるものではない。
「嬉しいですね。実は私は物理を教えているのですが、国語の先生にそういう風に理解して戴けるとは思っていません
でした。」
やったね、まぐれ当たりもここまで来るとむずがゆくなるほどだ。そこへ校長が入ってきた。ダブルの礼服を着ていて、
教頭が立ち上がって迎えたので、それと分かった。で、こちらも立って会釈をした。
「そのまま、そのまま、」
と手で押さえる仕草で我々を座らせて
「山本先生、お話はすすんでいますか?」
「は、そろそろ・・・」
「ところで、貴方は泳ぎはいかがですか」
これは意外な質問だった。
「遊ぶ泳ぎなら得意ですが、競争はできません。足が悪いものですから」
「それで結構なんですよ。本校は一年生の時に水泳訓練をするのが伝統でしてね。・・・では山本先生おあとはお任せし
ます。宜しいように」
国語の教師の採用にまさか水泳が関係しようとは思いがけなかったが、答えの通り水泳は嫌いではなかった。この面接、
上手くいきそうな気がしてきた。多分今の校長と教頭の何気ないやりとりの中に、面接の結果に対する質問と、それへの
答えが行われたと思われる。はたして
「では、大野さん、貴方に来て戴くことになると思いますが、あなたの前任者の方の行く先が、まだ決まっていないので、
其処が決まり次第連絡を差し上げますので、その時は就任されるつもりでおいで下さい。ああ、それまでは今お勤めの所を
お止めにならず、勤続していてください。
年金の関係が有りますので」
という成り行きで、高校就職が九分通り決まったのであった。目の先がぱっと明るく開けた心持ちだった。つきはまだ落
ちていなかったらしい。
だが、ここでほっとしたことが良かったか悪かったか。
都立航空工業高等学校という校名だった。今は無くなってしまったから、校名を明らかにしても差し支えあるまい。私
にしても初めて知る校名だったが、そんなことは関係なし。取り敢えず都立の高校に職を得られたことが、何よりも嬉し
かった。
文筆で身を立てようという意志が、この瞬間だらけたことは間違いない。だが、父の心配したのは、私が一人前に生活し
ていけるかということだったろう。それで三人の姉に、協力して私を大学に入れるように遺言したわけだ。
遺言は正解だった。中の姉が、特に頑張って大学に入れてくれた。長姉は母と私の生活を中の姉とともに支えてくれたが、
大学の学費にまでは手が回らなかったようだ。学費そのものは奨学金で間に合ったのだが、その他諸々の雑費が大学生とも
なると必要になるのだ。三番目の姉は、早くに嫁に行ってしまって、このころは一緒に暮らしていなかった。
中の姉は英文タイプを習い、タイピストとして米軍に雇われ、結構な給料を稼いでいたようだ。この姉達のことは、感謝
と共に稿を改めて書かねばなるまい。
とにかく姉達のお陰で、高校教師の職にありつけた。父もここらで安心したことだろう。月給一万九〇〇円であっても、と
にかく姉達の厄介者になる心配だけはなくなった。父の遺言は、姉達にとっては、重くのしかかる頭痛の種だったろう。
都立高校の教員になれば、取り敢えず生活の心配はなくなる。私の衣食住の心配をしなくて済むわけだ。私にとっても、
心の何処かに、姉達の足手まといになる心配が有ったらしい。ほっと安心して力の抜けたのはそのせいに違いない。
食っていける、という目安がつくということは、当時としては大したことであった。何しろ食物にしろ、金にしろ、人間
そのものにしろ、ありとあらゆる物を使い果たしたあげくの敗戦だ。
食べる、食物等の単語に対する我らが世代の敏感な反応は、他の世代とかなり違う物があろう。
それは「生きる」ということに対する反応にも、直通している筈だ。生きることは食べることだという、生(これも改めて
書かずばなるまい)そのものの実体を、かなり早い時期に知ってしまった。それは善悪を問う、はるか以前の問題であろう。
生きること自体が、絶対的な価値を持つということなのだ。
お後のことはどうにかならあな、という人間としては最低の認識が、そこに居座る。美とか芸術に対する認識に辿り着く
までには、ここからは、かなりの努力と時間が必要になる。ほっとしたり、力が緩んだり、怠けたりしたくなる必然性が、充
分すぎるほど身の回りに溢れている。この環境に浸りきる者と、「だからこそ」と抗う者との二種の人間が出来る。時代の業
とでもいうべきか。
教員としての職業意識は、逆説のようだが、食う為の仕事として強く、出来るだけの努力を注いだつもりだ。その頃だっ
たろうか、「でもしか教師」と言う言い方で、教師を馬鹿にした記事等が横行していた。「教師にでもなるか」連中とか「教
師にしか成れない」連中というわけだ。この分類でいくと、私は差し詰め後者になる。
私としては、そういわれても傷つくところが殆ど無い。それほど大会社に入ったり、上級公務員になることに価値が有ろ
うとは思わなかったし、そういうなら公立学校の教員になってみろ、みごと合格出来る奴が何人いるか、実験して貰おうじゃ
ないか、その上で言いたければ言うがいい。
その程度のプロ意識は持っていたような気がする。聖職等という意識は全く持たなかった。それは、お坊さんか牧師さん
神父さん、ユダヤ教やイスラム教の指導者等に対する敬称の類で、一般教員には当てはまらない名称だと、私は思っている。
だからといって、破廉恥なことを許される筈もないのは当たり前だ。ごく普通の一般人で、専門分野の知識の量が、多少普通
の人よりは多い、というくらいの者に、聖職はないだろう。
この程度では、父のプロ意識に敵うはずが無い。また教員という仕事が、好きで好きでたまらないという意識とも、私の
場合はかなり距離が有る。どう考えても、私は父に敵いそうもない。
そんな父と私との仲を裂き、工芸家としての父の将来性を奪った者を、私は憎む。戦争が悪かったという、こういうとき
の決まり文句を、私は使わない。責任を取るべき者、責任を取るべき制度に対する追究が、殆ど行われていないからだ。機会
が有る度にこの責任追及をこれからも続けるつもりだが、それは結構難儀なことかも知れない。右翼とか
保守主義者とかの、有形無形の妨害が有ることは容易に想像できる。だがそんなことを気にする年齢は
すでに遠い過去のことになった。そういうことは気にせず敢えて文章にする。
それらを振り切って、努力をすることで、父よ、貴方に対する私の憎悪、恨みの念をどうか許し給え。
貴方の息子より 完
第三回了
第一回
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