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「父よ許し給え」

第二回

 私は本を読み、文章を書くことが好きだが、それを職業にする気も自信も無かった。というよりも、そうしなくて も生きていける幸運が、私を怠け者にしたかもしれない。
 私の出身大学は、教員養成を目的としていた。その昔、師範学校と呼ばれていた学校を幾つか寄せ集めて、学芸大学 と名付けたのだ。当然義務教育に携わる教員の養成が、主たる目標の大学である。当然国立大学である。私立の大学に 進学させるほどの余裕はさすがの姉達にも無かった。
 それはそれとして、小学校の教員免許状を得るための単位の多いことといったら、種類も時間も、うんざりする程詰 まっていた。免許状を取るのが一番難しいのは、小学校一級のそれだ。これを取るため、何せ全教科を一応こなさなけ ればならないのだから。 小学校一級の免許状と中学二級の免許状は同時に取得できた。だが小は全科、中は専科制のため、国語科、数学科、社 会科等の科目別のクラスが存在した。私は国語科乙類に入った。

 小学校一級免許状取得の甲類クラスが三クラスと、中学一級免許状を取る乙類クラスが一クラス有った。私が入った のは乙類クラス。中学一級の免許状は高校二級の免許状も兼ねていた。高校一級の免許状は、新卒には取れない。実務 を何年か経験した上で試験を受けられる。そんな制度であった。大学の教員には免許状がいらない。そのくせ一番難し い小学校教諭の給料が一番安く、大学の先生のそれが一番高いというのは矛盾していた。私の知る限り、教え方の一番 上手なのは小学校の教員で中、高、大の順に下手になる。そして給料はその逆という矛盾は、今も続いているらしい。

 私はもともと義務教育の教員には成れない身体だった。足が不自由で、学童や生徒と一緒に走り回れない。だから高 等学校の教員を狙っていた。 前述の免許状の関係で私は高等学校二級の免許状を持っていた。免状を持っているからといって、すぐに教員になれる わけではない。それぞれの都道府県の教育委員会が、定員の状況を睨んで採用試験を行う。この試験に合格しなければ 教員に成れない。これが第一段階。
 次に欠員の生じる学校から面接の通知が来る。校長や教頭が、この新卒を採用しようかどうしようかと、ねちねちご たごた質問するわけだ。義務教育校では、まあ大抵はこの段階で採用が決まる。
 古狐共が都心近くか自宅近くに移動するから空席ができる。空席は直ちに埋めなければならない。次年度の授業に差 し支えるから、多少のことには目をつぶらざるを得ない。そんなわけで、新卒は東京の周辺部か島嶼部に回され、それ に不満がなければ決まりで一件落着。
 ところが高校の場合は事情が変わってくる。高校に進学するもの自体が、そのころ(昭和33年頃)には少なかった。 したがって高校も少なく、教員数も少ない。よってもって採用人数が少ないのだ。専門学科にもよるのだが、数学や化 学、物理、生物等は結構空席が有るのだが、国語、社会となると希望者が多く空席も何故か少ない。競争の倍率は大学 入試どころの騒ぎではない。私の採用試験の時は確か五十倍という噂だった。倍率は公表されないから本当のところは 分からない。今、平成二十一年の世の中も就職難のようだが、私の卒業した昭和三十三年も就職難だった。

 だがどんなに倍率が高かろうと、採用試験を受けないわけにはいかない。その道しか私には無いのだから。で、受験 したのだが、参った。さすが高校教師希望者対象のテストだけあって難かしい。なにやら和歌の入った古文が十数行並 んでいて、この文章の題名を当てろとくる。和歌が入っているのは平安朝の文章としては珍しくないから、題名を決め る手がかりにはならない。といって、源氏物語とやるのは安易に過ぎるだろう。 おまけに読んだとはいうものの、原文通読はとてもとても、谷崎源氏を通してやっと読めたくらいだから、内容など覚 えているわけがない。内容からして伊勢物語ではない。
 何か歌物語ではあるまいかとは思うものの、そんなものを読んだ事は全く無い。ええい、ままよと大和物語と名前だ け知っていた作品名を書いた。出たとこ勝負の行き当たりばったりそのままの答案だ。ミンコウニッソ(眠江入楚)に ついて説明せよ、これはいただきの問題だった。細川幽齋の書いた源氏の注釈書だと、最近の講義で聴いたばかりだっ たから。
 孟子らしい漢文の一部を書き下し文に直せ、辻褄合わせだから、書いた自分にさえ、意味が遠くに霞んでいて、何の 事やら定かではない。
 こんな状態の答案じゃあ受かるわけがないと思っていたら、なんと合格の通知がきた。ただし合格にもAとBが有り、 私はB合格である。運が良かったとしか言いようがない。この上Aにしろなどと文句を付けたら罰が当たる。 Bだろうとなんだろうと、合格しちまえばこっちのものだと多寡を括っていたのが間違いで、待てど暮らせど都立高 校からお呼びがかからない。
 小学校を受けた連中は、続々と就任校が決まっていく。そのうち四国のさる県立高校からお声がかかった。何故だろう。 合格したのは東京都の高校だったはずだ。それがどうして四国から話が来るのだろう。さすがに四国に行く気は無いので 断った。

 それにしろ、何処かに就職しなければならない。長姉の知り合いの紹介で「帝国地方行政学会」という出版社に入れて 貰った。編集の仕事には興味を持っていたが、、この会社は「官報」を原稿にして、そのコピーを学校やら会社やらに、 定期的に配布販売する出版社だった。国会が開かれれば、何か新しい法律が出来たり、変わったりする。それが官報に なって届くのだから、作家だの雑文家だのという、わが憧れの先生方には、全く無縁の出版社だった。
 この会社に勤めて二十日ほど経っただろうか、都立航空工業高等学校と言う学校から会いに来てくれという連絡が有っ た。来たかちょうさん、待ってたホイと喜んだ。案内には、上野広小路から南千住汐入行きの都バスに乗り、航空工業 前で下りるとある。便利なところのようだ。早速休暇をとって出掛けた。案内通りにバスに乗る。我が家は世田谷区新町 の都営住宅だった。
 駒沢の隣町である。その頃にはまだ玉川通りを、芋虫に似た緑色の玉川電車、略して玉電も東急のバスも通っていて、 このどちらかで渋谷に出る。渋谷から浅草行きの地下鉄に乗ると、上野広小路を通る。だから乗ったのだが、このバスの ルートが上野駅、稲荷町、田原町と続き、終点が東部浅草駅。つまり広小路から田原町までの四つの駅、いずれも都バス と連絡していることが最初に分かった。田原町で国際劇場(あの頃はまだ劇場が存在していたのだよ)方向に左折し、 その前を通って言問通り、これを右折しすぐに千束通りを左折、これは多分、昔の吉原へ行く道では ないかと思っていると、これがズバリ正解。土手通りから吉野通りへ右折する、その交差点の名前が吉原大門なのだ。 樋口一葉の(たけくらべ)の冒頭にも書かれている、由緒正しき見返り柳まで揃っている。

 吉野通りを左折すると間もなく涙橋、地名からして穏やかでない。そう、この辺りが江戸時代には小塚っ原の刑場跡。 この辺一体はつい最近までサンヤと呼ばれ、現在は清川と街の名前が変わっているが、西の釜が崎と並ぶ、その名も高 いドヤ街である。涙橋で交差しているのは明治通りだが、此処は曲がらず次の信号を右折する。
 曲がって左側はずっと隅田川駅の構内。なに、そんな名前の駅は知らない?そうでしょ。そうでしょ。あたしだって初 めてだったもの、こんな名前の駅が有るなんて。貨物駅だ。 新橋の裏か表か知らないが、その名も汐留という貨物駅が有ったらしい。これから行くあたしの目的地が汐入だ。 まぎらわしいったらありゃしない。
 その駅から何本も線路が出ていて、常磐線に接続しようと大踏切ができている。一度閉まると二十分は開かない。 よってバスは南千住の駅には立ち寄らない。もちろんバス停もない。 駅前にバス停のない国鉄(当時)の駅なんて他に有ったのだろうか。右折するところのバス停の名前が南千住駅入り口。 ここから駅まで、足の速い人が歩いても五,六分はかかりますよ。
 おまけに大踏切を渡ったらガードを潜り、右折しなけりゃ駅には出られない。その上この道が湾曲していて、曲がり角 から駅を見通せない。慣れればなんてことはないが、初めての素人には、結構難しい道筋ですよ。
この入口から五つ目の停留場が航空工業前だった。次が終点汐入らしく、先発したバスがくるりと旋回しているのが見 える。袋小路なのだ、ここは。我が家から一時間半はたっぷりかかっただろう。乗り換え二回さえ気にしなければ、確か に便利なことは便利だ。 だが東京の辺境中の辺境、街全体が袋小路の中にある、他の何処にも行き場のない、どんづまりであることもまた確かだ った。

                           第二回了
                            第一回
                             第三回






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