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「父よ許し給え」

第一回

 父の姿を最後に見た場所は上野駅だ。昭和二十年二月のある朝である。
 私は学童集団疎開に参加するので、信越線に乗らなければならない。 家が池袋にあったので親兄弟の見送りは池袋の駅まで、と学校からは言い渡されていた。池袋から省線(山手線) に乗って上野で乗り換える。 当時東北、信越方面へのターミナルは上野駅だった。 学校からの言い渡しなど、どの親も無視して上野まで見送り に来ていた。学校でも或る 程度は予想の範囲内だったろう。空襲の激しさからいえば、これが最期の別れになる可 能性が大きかった。事実父と私とはこれが最期の別れになった。違反だと文句を言う教師はいなかった。
 ただおおっぴらに別れを惜しむことは出来ない。物陰でそっと我が子を抱きしめる母親が多かった。表面は軍国主 義的厳格さを装いながら、内実は昔ながらの人情的はからいという、どこか大岡政談にでも有りそうな状況だった。 わざわざこんなこと、当たり前すぎて書くまでもないだろうと思われる向きも多かろう。 私もそんな人情話を書く気はさらさら無い。

 父の姿を物陰に見つけたことが、私にとっての事件だったのだ。父は私に対しては、厳格もいい加減にしろと言い たくなるほど厳しい態度で臨んだ。学校の決めた規則に違反することなど、絶対と言っていいほど許さなかった。 その父が物陰から私を凝視していた。 規則の裏を潜るとか、大袈裟に言えば法を破るとか、そんなようなことほど父の性格にそぐはないことはなかった。
 何故父がそこにいるのか、普通の子なら駆け寄って別れを惜しむところだったろうが、しかし私は気が付かないふ りをしてそっぽを向いた。冗談ではない。ようやく父から解放される、千載一遇の機会に恵まれたのだ。此処で引き 戻されたりしたら元の木阿弥ではないか。 これ程までに父を恐れ離れたがったのは、父の仕事と、末っ子で長男という私の家族内の立場、さらに私が二歳の 時に罹った、小児麻痺による左足の下肢損傷が遠因と思われる。

 私は父が四十四歳の時の子供である。上三人は姉で、すぐ上の姉とも七歳離れている。もう一人姉がいたらしいが、 幼児の時に亡くなっている。もしこの姉が生きていたら、四人の姉が私の上で、どっかと睨みを利かせていたであろ う。しかしやがて私は、昔流に言えば大野家の家長になる立場の男子として生まれた。
 母は四十歳、私を収めた大きいお腹を抱えて歩くことを恥ずかしがったそうだ。父は、亭主持ちが妊娠して何が恥 ずかしいか、私は亭主持ちですと書いた看板を首からぶら下げて歩くかと、母をからかったそうだ。現代(平成21年) ならこのくらいの親年齢など珍しくもないが、当時としてはやや高年齢の出産ということになろうか。平均寿命が五、 六十歳とすると、無条件歓迎の子であったかどうか、私は昭和九年(1934年)の生まれである。
 父は美術工芸作家と職業欄には記入していたが、金属彫刻作家と言う方が正確だろう。つまり仕事場は自分の家だ。 一日中顔を会わせている。この関係が父と私の関係にかなり絡んでいるに違いない。

 時代背景も良くなかった。私の生まれた時にはすでに満州事変が起こり、やがて日中戦争に広がる気配を見せてい る頃だったのではあるまいか。 芸術に携わる者としては良くない時代であったろう。せっかく生まれた後継ではあるものの、無事に育てられるかと いう不安は有ったであろう。 昭和十九年の秋口からB29による空襲が頻繁になり、朝晩続く空襲を、せめて子供だけでも避けさせるため、こ の年十月頃から第一次の学童疎開が始まった。
 父はその時には私をそれに参加させなかった。何故かは分からないが、多分様子を見ていたのだろう。この戦争の 成り行きに明るい未来を見ていた大人は、厳しい言論統制にもかかわらずおそらく一人もいなかっただろう。何しろ あっちで転進(退却のこと)、こっちで玉砕(全滅のこと)という報道があった後で、何々沖海戦で敵空母何隻撃沈、 戦艦何隻轟沈の大勝利のニュースが続く。なのに空襲のときには艦載機まで飛んでくる始末だ。空母を沈めたのに何 で艦載機が何十機も飛んでくるのか。大人だったら、早晩、停戦の話が敵と行われるだろうと予想しない方がおかし い。そんな状況を父は見ていたのだろう。

 それとは別に、父は自分の病を知っていたのではないかと思われる節がある。胃ガンである。とすると覚悟しなけ ればならないような痛みが、何度も父を苦しめたであろう。後援者でもあり、話し相手でもある医者もいた。その医 者に或る程度の症状を知らされていたのではなかろうか。 胃ガンであり、余命も長くはないと。そのことを母や姉達に話せただろうか。
 母は父が胃潰瘍の手術を受けたと私に話した。そこから彼女の話はバラバラになってくる。お茶の水の順天堂病院 で手術を受けた。そして池袋 の家に退院してきたのだが、空襲で担架に乗せて逃げ出したとき、傷口が開いて大出血、立教大学の庭に運んだが其 処で亡くなった。この話には亡骸をどうしたかについての結末がない。そこが信憑性に欠ける。
 家で吐血したことは確かなことだろう。姉の一人は、慌ててトラックに乗せて順天堂病院に運んで手術したが時既 に遅く絶命した、と話した。 そんなところが相場だろう。病院に運ぶためのトラックを探すのに苦労したというところに、この話の信憑性がある。 空襲の激しさが彼女達の記憶を混乱させていることは大いに有りうることだ。 吐血、入院、手術、死亡の四点だけが共通点だ。その間に何が入り、順番がどう変わろうとそれを責めることは出来 ない。父の遺骨は、駒込の吉祥寺に有る順天堂病院の合同供養塔に葬られている。で雑司ヶ谷の我が家の墓には、父 の髪の毛と爪が入っている。

 いずれにせよ、我が家は形式的にではあってもメソジスト派のクリスチャンであったから、墓にはそれ程こだわる ことはない、はずなのだがお盆になると姉弟のどちらからか墓参の話が出て、雑司ヶ谷に行くことになる。祖霊崇拝 の民族的習慣から脱却するのはなかなかに難しい。

 さて話を昭和二十年の晩冬の上野駅駅頭に戻せば、父にとっては最期の別れを覚悟の上での見送りであったろう。 私に伝えておきたいことは種 々あったに違いないが、何しろ九歳と数ヶ月の子供に何を言っても始まるものではあるまい。その上私にとっての父 は、災難であり疫病であり、 看守であり、とにかく彼から離れて、彼を意識せずに暮らせることほど幸運な事はなかったのだから、この食い違い はどうしようもない。

 父の病については、私が三十歳を越えたくらいの年の定期健康診断のときに、医師に肉親に癌になった者の有無を 問われた。父が胃潰瘍で手術を受けた経緯を話すと、あ、それは胃ガンですよ、といともあっさりと断定され、そう だったのかと思い当たることが多々あった。 痩せぎすの身体、青白い顔色、不機嫌にしかめた表情、それらの現象と病とはつながっていたのだろう。自制心の弱 りからどうしょうもなく私を叱ったことも有ったに違いない。

 更に言えば私は造形的な才能や感性を父から受け継いでいなかった。図画工作、習字のような手先の仕事に類 することは、不得手であり不器用であり、要するに下手くそだった。世に言う不肖の子である。
 そして多分、父は自分の納得する作品をまだ作っていなかった。三人いる姉の誰かには観音像を作りたいと話したこ とがあったそうだ。形式的にではあってもプロテスタントのクリスチャンである父が、観音像など彫って良いものだ ろうか。仏師と呼ばれる人達との関係はどうなるのか、その辺のことは門外漢の私には分からない。
 多分父は、自分で満足できる作品のモデルを探していたのだろう。だが自らの病から来る余命と、連日連夜の空襲の 中では、たとえモデルが見つかったとしても、その完成は不可能だったろう。そう覚悟しなければならなかった父の 無念さを、近頃推察できる年齢になった。七十歳を過ぎての推察では遅すぎると言われようと、何も分からぬままで いるよりはましだろう。

 工芸作家としての焦りのようなものが、父の私への不機嫌に結びついていたらしい。だがそれは、十歳にも満たな い年齢の私に、理解できる事柄ではない。どうしても自分の思うような文章が書けない、間もなく七十五歳になる私 自身の経験から、ああ、これだったかも知れないと、ひょいと思い当たったのだ。その経験の積み重ねの年数が、父 の不機嫌になる事情の理解には必要だったらしい。
 もし父が今の私の年齢まで生きられたら、そこそこ名の有る彫刻家になっていたかもしれない。なにしろ作品を造り、 それを売って家族を養っていたのだから、一人前の作家であり、芸術家ではあったのだ。御所人形、枝葉付き葡萄の置 物、蘭の置物、鮎や梅の帯留め、中には鏡餅に伊勢海老を備えた置物まで作っていた。注文ならそういう俗っぽいも のまで作らねばならなかったのだろう。その意味では、父は立派なプロだった。

                           第一回了
                             第二回
                             第三回


      




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