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「焼きむすび」



 雨上がりの多摩川の川原には、人影がまばらだった。
「一夫、川に近寄っちゃ駄目よう」
 草むらの上に新聞紙を敷き、その上にどっかり腰を下ろした妻が、息子に怒鳴っている。
「分かっているようっ」と息子の声。
 日曜だったら、もう少し人が出ているのだろうが、今日は釣り人の影もない。もっとも 多摩川も、二子と名の付くこの辺りの下流では、ろくな魚は釣れないかも知れぬ。
「遊園地に行こうか。この水じゃボートにも乗れないし」
と私が所在なくつぶやくと
「お弁当を食べてからにしましょうよ。それに一夫はここでも結構楽しいのよ。遊園地に なんか行かなくっても」
 川の水は黄褐色に濁り、かなりの早さで、渦を巻きながら流れている。一夫は川原の店 で買ってやった玉網を手に、あっちの水たまり、こっちの水際とかけまわっていて、確か に楽しそうだ。
 ふと、目の先三メートルほどの泥の中から、丸い顔を出している石に心を惹かれ、立ち 上がってその石のそばへ行き、手で周りの泥を払ってみた。丸いと思った石の頭は、近く で見ると、一筋大きなくぼみが走っていた。
「なんなの、その石」
妻はカメラを手にしながら、私に声をかけた。
「いや、ちょっと形が良いもんだから」
辺りを見回して板きれを拾うと、石の周りの泥を、少しずつ掘り起こした。
「漬け物石にでもするの?」
「冗談じゃない。親父の墓石にどうかと思ってさ」
「ああ、いつか話してた、あれか」
そこへ一夫も戻ってきて
「パパ、なにしてんの。この石拾うの。僕、掘ってあげようか」
と玉網の先で泥をほじり始めた。
「待て、待て、それじゃ網が台無しになる。なんかそこらで棒を拾っといで」
 すぐに一夫は竹の棒を拾ってきて、発掘作業に参加した。しばらく掘ると石の輪郭が知 れた。差し渡し五十センチ、高さ三、四十センチの、いびつな丸形の石だった。
「さあ、やめだ。くたびれた」
 私は板きれを、川の流れの中に投げ飛ばした。
「良い石だけど、運べないな」
「お父さんのお墓の石に、あんな石が良いの?」
「そうだよ、じゃどんな石が良いと思ってたんだい」
「そうね、もっと大きな石かと思って。墓石だって言うから」
「大きいのは大谷石とかって言うんだろう。多摩川の石っていったら、ま、こんなもんだ よ」
「どうするの、持って帰る?」
「いや、またにしよう。もっと良いのが他に有るかも知れない。第一、どうやって持ち帰 ったら良いのか、分からないよ。リュックでも持ってきて、運ぶのかな」
 肩と腰のあたりが凝って、鈍い痛みを感じた。
 煙草を吸いながら、わたしは父の遺志を叶えてやれるのは、何時なのだろうかと、ぼん やり考えていた。


 多摩川の石で墓石を作る」と、父は生前よく言っていた。釣好きだった父は、魚を釣り ながら、気に入った石を探すつもりだったのだろうが、それを果たさぬうちに、昭和二十 年の春に死んでしまった。だから雑司ヶ谷にある我が家の墓地には、未だに墓石がない。 年に一度、木の墓標を立て替えつつ、今日まで来てしまった。墓石を作る金の余裕が、私 に無いからでもあったが、父の遺志が、私の心の何処かに絡んでいるからでもあった。
 金が出来るまで待って、全てを石屋に頼んでしまうのが一番面倒が無く、私の気性に合 っているのだが、私は何か父に対する自分の感情を確かめたい、というような気がしてい た。
 私が九歳と八ヶ月の時に死んだ父のことである。何を確かめるにも、筋道立ったことが できようとは思わない。ただ、父は不当に私を憎んでいた、という印象が、長い間私には あった。厳しく冷たい父だったが、その裏に(父親)が潜んでいたかみしれない、とこの頃思 うようになった。私自身が、一児の父親になったからかもしれない。
「さあ、お弁当にしましょうよ」
妻が開いた包みには、海苔を巻いた握り飯が並んでいた。
「これで手を拭いて」
と薬品の匂いのする手拭きで指を拭かされる。
「鮭の入ったのが良い」
一夫は言い、どうして見分けられるのか
「はい、これよ」と妻が握り飯の中心に、ちゃんと鮭のほぐしたのが入っていた。
「おい、俺も鮭だ」と私、
「鮭と奈良漬と二つずつですからね。鮭ばっかり食べようとしても駄目よ」
と我妻殿。ふと思い出したことがあって
「握り飯にねえ、醤油をつけて網で焼くと、香ばしくて旨いんだぞ。それになかなか腐ら ないんだ」
と言うと
「そう、美味しそうねえ。こんどやってみましょうか」
「ママ、それやってね。お醤油つけて、きっとね、ママ。わあい、わあい」
家族の暮らしというものは、こういう具合に、素直に行かなくてはならない。私はこの頃 素直になったと、自分でも思う。三十を越した素直な男などとは、笑い話の種にもならな いが、十歳になるやならずの、ひねくれ小僧の面従腹背ぶりよりは、いくらかましだろう。
 私がそういう憎たらしくも嫌らしい子供だったことに、父は気付いていただろうか。気 付いていたにしろ、いないにしろ、父はやはり父のやり方でしか、私を扱わなかっただろ うし、それなら私もやはり、ひねくれざるを得なかっただろう。親子の情のもつれなど、 親が死んでしまえば、ほどく、ほどかぬは子供の勝手のようなものだが、ほどいてみたく なるのが、血のつながりとでもいうものであろうか。


 昭和二十年の春は、B29の振りまく焼夷弾と共に、東京にやってきた。爆弾や焼夷弾に 追い立てられた子供達は、学校ごと地方へ疎開させられた。私もこの集団疎開の中にいれ られ、長野県は埴科郡東条村というところに、やられることになった。生まれて初めての 長旅である。悲しさなどとんと湧いて来ず、父の目の届かないところへ逝ける嬉しさに、 指折り数えて、出発の日を待ち焦がれた。
 電球の笠の周囲に、黒布を垂らした、ほの暗い光の下で母は鯉のぼりをほどいていた。 私が疎開に持って行く、布団の側にする為であった。この鯉のぼりは、私の生まれたときに、 買ったか貰ったかしたものらしかったが、この頃までに、竿も滑車も矢車も無くなってい た。だから物心ついてからは、この鯉が空を切って泳ぐ姿を見たことがない。再び空中に 舞う日の来ないうちに蒲団にされて、私の寝小便の中を泳ぐことになったのも、時代のな せる業であった。
 父は、出発の前日まで、常と変わらず、私に勉強を強いた。明日からは思い切り遊べる んだと、つらい書取をしながら、胸をときめかせたことを覚えている。
 父は何時も家にいて仕事をしていた。彫金工芸を職としていたからである。私は学校か ら帰ると、ランドセルを背負ったまま、父の細工場へ罷り出で、
「只今帰りました」
と両手をついて挨拶をさせられた。細工場は四畳半で、廊下によって居間と隔てられてい て、その敷居の所で一度座り、それから父の傍まで膝行しなければならないのだった。
 ランドセルを玄関口から投げ込んで「遊んでくるよう」の声と共に、風のように走って いく友達を、私はどんなに羨ましく思ったことだろう。
 父は細工場の庭に面した所に、一畳分はたっぷりある、欅の一枚板で作った机に向かっ て、彫り物をしているのが常だった。厚さ五寸のその机を、家の者は「オヒゲ」と呼んで いた。細工場の父は、そこに入って来る者に、左半身を見せる姿勢で、オヒゲに向かって いた。
 私が入って行くと、父は仕事の手を休めて向き直り、
「今日は、どうだった」
と聞き、私は国語や算数の本を開いて、今日進んだところを父に示す。
「今日習ったところを十回、明日習うところを十回書取をして、算数の問題をここからこ こまで」
私は、いつになったら、こんな嫌な勉強をしなくて済むようになるのだろうと思い、すで に女学校を卒業して、勤めに出ている姉達が、羨ましくて仕方がなかった。
 指示された書取や算数が仕上がったとしても、勉強が終わりになるわけではない。書取 や計算帳を見せて、父の点検を受けなければならない。そして、たいてい
「汚いな、お前の字は。もう十回書き直しておいで」
とか
「この字は間違っているよ。こう書くんだ。さあ、もう十回書いておいで」
と、やり直しを命じられてしまう。父がノートを見ている間、私はどうかこれで良いと言 うように、良くできたと言うようにと、胸が痛くなるほどの思いだったが、一回で点検を パスすることは、ほとんど無かった。
 突き返されたノートを持ってすごすごと二階の勉強部屋へ引き返し、小さな座り机に向 かって、私は声を忍んで泣いた。泣いていることが知れれば、
「勉強を嫌がって無く奴があるか」
とひどく打たれるのは経験済みだったからである。
 それ程嫌な勉強でも、怠けて家を抜け出すことは出来なかった。二階にある勉強部屋の 階段は、細工場のすぐ後ろに付いていたから、上がり下りはすぐ父に知れるし、万一首尾 良く脱出できても、あとで、尻が腫れ上がるほど、打たれるのは分かり切っていた。
 通りの方からは、友達が群れて遊んでいる声が聞こえる。窓を開ければ姿も見える。私 の心はそっちに抜け出してしまっているのに、悲しや身体は勉強机の前なのだ。千々に乱 れる幼い傷心を抱いては、字などきれいに書けるわけが無い。書くほどに、心の乱れをそ のままに、へんとつくりの間が二センチも離れたり、左右のバランスがまるで取れていな い、大地震に遭った、あばらやさながらの漢字が、書きなされていくのである。もっとも、 これは私の考えた、漢字早書法のせいでもあった。とにかく早く書き上げたいの一念から、 始め、へんだけ一行をずらりと書いて、後からつくりを付けていく方法を、私は考え出し た。その方がなんだか早く仕事が済みそうな気がしたからである。
 時々、行を間違えたりすると、たとえばぎょうにんべんに力というような新漢字が誕生 したりした。焦って書いている最中には気の急くあまりに気が付かず、書き終えてから気 が付いて、口惜しいとも、情け無いとも言いようのない気分で、ノートが破けるほどの力 を込めて、ゴム消しでこすった。
そんな時、友達が
「マーサーちゃん、遊びましょッ」
と誘いに来たりすると、居ても立ってもいられなくなり、たちあがって、部屋の中を、う ろうろと歩き回ってしまう。遊びに行きたい、だから誘いを断りたくないのである。せめ て
「勉強終わるまで待ってて、すぐ済むから」
とでも言いたいのだが、父はそれを許さなかった。
「お断りしなさい。勉強が済んでから行くと言いなさい」
と下から父の声がして、私は切ない思いで、涙に曇った声を振り絞り、
「勉強だから___あとでね」
友達を怒鳴りつけた。友達までがなんだか憎らしかった。そんな思いでやっとできあがっ た書取も、時によると三回、四回とやりなおしを命じられ、ついに遊びの方は、日没時間 切れになってしまうことも、ままあった。
 日記も毎日書かされた。就寝前に父の前へ罷り出て、
「×月×日晴れ、今日は給食に鮭缶御飯が出た。おいしかった」
と読み上げる。父は仕事をしながらそれを聞いて、
「良し」
と言う。日記帳を点検することは稀だった。私は日記の本文を、できるだけ短くして、そ の場で思いついたことを、一つだけ書いた。そのうち私は、日記帳に何も書かずに、白紙 のまま読み上げる日の方が多くなった。胸の中がむずがゆいような、痛がゆいような気が した。それはいくらかのスリルと復讐の味わいの混じり合った、一種の快感だったように 思う。反抗というような、勇ましい者では決してなかった。もっと隠微な敢えて言うなら 背徳というような語感に近いものだったと思う。
 何ヶ月も勧進帳をきめこんだ後の決着がどうなったかは覚えていない。きっと私の尻が、 日記帳の空白の償いに腫れ上がったのだろう。
 こんなことがあった。
「×月×日、今日はコウタイヒデンカのお生まれになった日だ」
けれどもそれは皇太子殿下の誕生日だった。
「それはコウタイシデンカとかくんだよ」
私は二階へ日記を持ち帰り、注意されたところを消して、又読み上げた。どうしたことか、 またもコウタイヒになっていた。
「コウタイシは男でコウタイヒは女なんだよ。しょうがないな」
 たしかに注意されたとおりに直したと思っていた私は、この再度の注意で、完全にこん がらかってしまった。シは男だったっけ、女だったっけ、ヒの方が男みたいな感じだ等と 考えるほど、区別が付かなくなって、結局日記帳に向かうとコウタイヒになってしまうの だった。二階と父の前の間を六回ほど往復するうちに、私は完全にふてくされていた。シ だってヒだって大して変わりがあるわけじゃないし、何をしつこく、何度も書き直させる のだろうと思った。そして、喉の辺りで「チキショウ、チキショウ、コノヤロウ、ハヤク シネ、ハヤクシネバイインダ」と叫びながら父の顔を睨み続けた。あの時、誰かが私の背 中をポンと叩いたら、思わず呪いの罵言が唇の外に漏れたかも知れない。
 父は私にとって、私を強制し、束縛するためだけの存在だった。わたしとチャンバラを したり、相撲をとったりしたことは一度もない。抱いて貰った記憶さえなかった。どれ程 打たれたとしても、そういう交流があったなら、私の気持ちも、ただ一途に父を恐れ、憎 むと言う方向には向かわなかっただろうと思う。
 しかし、父は当時五十四歳だった。五十四歳という年齢が、人間に何を強いるか、おぼ ろげに推察できるようになったのは、ついこの頃である。九歳と数ヶ月の子供には、ただ 表面で恐れひれ伏しながら、口には出さずに、父を呪い憎むより他に、方法がなかった。
 父が私に焼むすびの話をしたのは何の時だったか、もう覚えていない。父はよく故郷の 秋田の話をしていたから、そんな話の序でに焼むすびの事が出たのだろう。父の故郷の話 など、面白くも何ともなかった。ただ面白がって聞いている振りをしないと、父が怒ると 思い、面白い振りをして聞いているだけだった。そのくせ、焼むすびを食べたいと言えば、 父はきっと喜ぶだろうと言うような、話の勘所は、すぐに分かってしまうような所が、わ たしにはあった。さぞむすびが旨いだろうという風には、考えが流れて行かなくなってい た。

「弁当は何が良い。お前の好きなものを作ってあげよう」
出発の前の日に、父は私に言った。
「おむすびに醤油を付けて焼いたのが良い」
ほう、という顔をした父は
「どこかで食べたことがあるのか?」
と聞いた。
「ううん、前にお父様が話してくれた」
「そうか」
父はちょっと顔をほころばせた。それは私の想像していた通りの表情だった。
「お母さん、結びと塩鮭だよ、坊主の弁当は」
父の声はいくらか弾んでいるようだった。その時私は焼むすびを食べたいとは、決して思 っていなかった。
 明くる朝四時頃、母に起こされた。外は未だ暗かったが、父はすでに起きていて、炭火 の上でむすびを焼いていた。
「お父様が、御自分で焼いて下さっているのよ。御礼を言いなさい」
 むすびは良い匂いを立てて焼けていたが、色はお世辞にも、旨そうには見えなかった。 そのときすでに私は、(しまった、もう少し旨そうなもの弁当を頼めば良かった)という、 失望のような、後悔のようなものを感じていた。
「お父様、有り難うございます」
火鉢の前に座って礼を言うと
「しっかり大きくなって帰ってくるんだぞ。先生のおっしゃることをよく聞いてな。お前 が帰ってこないうちに、お父さんやお母さんは死んじゃうかも知れないが、立派な人間に なるんだよ」
むすびをかえしながら父は言った。
 当時の親としては、それは当然の覚悟であったろうが、聞いている私には、何の実感も なかった。父が死ぬなどという幸運が、私にやって来る筈がない、くらいの気持ちだった ろう。母は黙ってハンカチで涙を抑えていた。
 むすび二つ、塩鮭が一切れ、それに漬け物を少々とが竹の皮に包まれて、一食分の弁当 だった。予備の一食分と合わせて、二つの竹の皮包みを見ると、何だか田舎臭くて、わび しく腹立たしかった。
 五時、国民学校の庭に集合する。校庭は未だ暗く、隣の友達の顔が、やっと見分けられ るほどだった。子供達を囲むようにして、見送りの親達が集まっているが、何処に自分の 親がいるのか、子供達には見分けが付かない。
 やがて、子供も親も長い列を作って、池袋の駅まで歩いた。親達はここで子供と別れて 帰ることになっていた。子供達は整列し、親達に別れの挨拶をした。父が手を振り、母は 相変わらず涙を拭いている。別れの挨拶を終えると、私は何かほっとした気分になった。
 上野について驚いた。池袋で別れの挨拶を交わした見送りの親の大部分が、先回りして 待っていたのだ。学校では(お父さん、お母さんとは池袋の駅でお別れです)と何回も先生か ら聞かされていたのにと思い、隣の子に
 「見送りのヤミだね」
とささやいたが、その子は(ふん、ふん)と上の空で返事をし、目はキョロキョロと自分 の親を捜していた。
 私は親の顔を探さなかった。見送って貰いたいという気が無かったからでもあったが、 父の性格を心得ていたからでもあった。父は決められた規則は、几帳面に守る性質だった。 米や砂糖、衣類のヤミ買いなど普通に行われていたが、父はそうすることを極度に嫌がっ て、母と口論をするようなことがあった。だから、父が決まりを破ってまで、上野に来る 筈がない、と私は思っていた。
 子供達は親達とゆっくり話す暇を与えられず、すぐに改札口からホームに並ばされた。 汽車はなかなか入ってこなかった。ふと、改札口の向こうに父の姿を見た。長身の父が、 人々の後ろから、伸び上がるようにして、こちらを見ている。(何だ、来てたのか)意外だと 思い、なんでこんな所まで来るんだ、と怒りのような感情が私の心に湧いた。
 汽車がようやく入ってきて、見送りの親達の間から
「元気でねえ」
「気を付けてねえ」
「先生お願いします」
等々の叫び声が怒った。子供達は振り返って手を振り,手を振りながら列車に乗り込み、窓 から首を出して、親の姿を探し求めた。私は父が手を大きく振っているのを横目に見なが ら、振り返らなかった。窓から首も出さなかった。早く汽車が出れば良いと思い、父の目 の届かないところに行けることが、未だ本当とは思えなかった。今にも父がやってきて
「さあ、家へ帰るんだ」
と連れ戻されそうな気がしていた。そして、汽車がごとりと動き始め、それが父と私との 永遠の別れだった。父はこの日からほぼ一月後に、空襲で死んだ。
 汽車の中ではひとしきり、トランプだ、将棋だと遊びが始まり、やがて昼飯の時間、友 達の弁当の豪華だったこと、散らし寿司あり、海苔巻きあり、卵焼きあり、はんぺん、か まぼこ、炊き込み御飯、現今ならば何の珍しさも、さほどの豪華さも感じない弁当だろう が、その日の米にも事欠く昭和二十年の春先では、よくぞここまで集めた親の執念と、思 い出すさえ胸が痛くなるような品々だった。
 加うるに、飴玉、キャラメル、ドロップの類は菓子屋の横流し(闇商売の別名)にしても、 チョコレートにチューインガム、はてはパイ缶の横文字さえちらほら見えたのは、今考え てさえ魔法のようで、撃墜したB29から、分捕ったとしか思えないものだった。
 始めのうちこそ(お前にやる)(あいつにゃやらない)の選り好みも、時が経って腹がくち くなれば、誰彼なしの大盤振る舞い、貰っては食い、食っては貰い、他人様からの貰い物 で、腹も裂けんばかり。さて、御返礼と私の差し出した竹の皮包み、焼いたむすびに塩鮭 の一切れなど、誰一人見向きもしない。
 旨そうな菓子のやりとりの間に割って入って
 「そのお菓子、これと取り替えてくれない?」
 と申し出ると
 「うん、やる」
 と気軽な返事に、こちらも竹の皮包みを差し出すと
 「それ良いよ、要らない」
 と突き返され、菓子をやらぬとけんつくを食わされるよりなお辛い。腹が立つ。情け無 い。何故もっと旨そうなもの、良いものを持ってこなかったろうか。
 所々で大声を張り上げ
「キャラメル要る奴いないかあ」
「呉れ、呉れ」
 大方の物が貰われていく。私も
「これ、要らないかあ」
と最後の望みを掛けた一声、だが誰も
「呉れ」
とは言ってくれない。
「ちぇっ」
 私は汽車の窓から竹の皮包み、開きもせずに、二つとも、ぽいぽいと投げ捨てたのだっ た。これが行く先の、明日からの生活の中で、どれ程の貴重品であるかということは、想 像さえできなかった。ただただ口惜しさと後悔で、胸の中を熊手でかき回されているよう な気分が膨れに膨れ、今にも破裂しそうだった。


 海苔に包んだむすびの中の奈良漬の細切りは、しゃきり、しゃきりと舌に快かった。ワ イシャツを脱いだ二の腕あたりを、初夏の日がゆっくりと滑って行く。
「お弁当の所、パパ、写真に一枚」
妻にカメラを渡され
「よし、よし」
とばかりにファインダーを覗くと、ふと、私のためにむすびを焼いてくれた父の姿が、そ こはかとなくファインダーの底に映ってくる。
 父は父なりに、私を可愛がっていたのだろう。でも、私はそれを掘り起こすのに、二十 年かかった。立ち上がって先刻の石の所に行ってみた。
「どうするの、持って帰りたそうね」
「とても、とても。俺の力じゃ持ち上げるのだってやっとこさ」
 だが、そろそろ本気で、父の墓石を探す時期が来たようだ。
「一夫―ッ」
なんということもなく呼んで
「早く大きくなれよ」
と頭を撫でる。強い日差しが、丸い石の頭に照り返して、眩しいほどだった。

                   了

              (昭和四十二年六月概作、平成二十二年一月改題及び校正)  




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